NetflixでDeath Noteを見ていた際に「L is dead」というメッセージが見えた。Lが実際に死んでからしばらく時間が立っているので、実は他にも「L is alive」等のメッセージが存在し現在のLの状況を伝えたという感じだったのだろうか。
「Death」「die」「dead」は全て英語で死を表すがそれぞれ、名詞、動詞、形容詞(または副詞)になる。北斗の拳の有名な台詞の一つである、「お前はもう死んでいる」は英語にすると「You are already dead」になる(と思う)が、「You are dying」 にはならない。もし上記のLの死亡を伝えるメッセージが、Lの現在の状態を表すものではないのであれば「L has died」の方がいい気がする。
形容詞としての「dead」対応する日本語の単語は存在するのだろうか?形容詞として「死んでいる状態」を表す単語というのを実は知らない。複数言語(といっても三つだけだが)を扱えるようになると、言語Aにはあるが言語Bに対応する単語がないということがままある。例えば「おにぎり」をずばり表す英訳や蘭訳はない気がする。逆に、蘭語の「beleg」のズバリは日本語にない気がする。(そういえば「忖度」という言葉の訳はドイツ語にズバリで「vorauseilender Gehorsam」とか「unausgesprochene Anweisung」とかいうそうだ。)
多言語を扱う際にはこういった「ある言語にはある概念」を扱う必要がでてくる。二言語だと言語Aで考えて言語Bに翻訳するみたいになる気がする。これが面倒になると最初から言語Bで考えるという風になる気がする(余談だが、この状態になると、酔っ払っていても言語Bで会話できる)。僕はこの状態で言語Cが入ってきた。言語Cの習熟度は他の二言語に比べると遥かに低いのだが、不思議なことに言語Cで話しているときは言語Cで考えているのである(もちろん、足りていない部分は先の二言語で補っているが)。これは一体どういうことなのだろうか?
思考という部分は置き換え可能なパーツでできているとすると割と理解できる動作なのかぁという気がする。脳内モデルが「入出力-思考-抽象概念」みたいな三層でできているとするのである。二言語を扱っていた最初期では「思考」の部分が母語になっていたが、これが徐々に第二言語に置き換えることが可能になった。そして、新たに覚えた言語は基本的な部分ができるようになると、置き換えの動作がスムーズにいき、習熟度が低くても置き換えられるようになったと仮定できる。
なんかこういったのを何度もブログに書いてる気がするなぁ、なんでだろ?自分のメンタルモデルを言語化するのが好きなのかね?
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